のじさんの徒然草

200坪の畑に100種類の野菜を育てています。 都会の近くで田舎風の暮らしを求めて、余暇時間を楽しむ、そんなライフスタイルの情報を発信しています。

2019年08月

私の駐車場の対面に空き地がある。そこに妻の経営する塾生の親が迎えに来て車を止める。
誰の土地かわからないが、土地の前半分だけ私が草刈をしてやっている。車を止める親の数は1,2台で数分間なので、地主のためというより親御さんのために、草を刈っている。


20190830_171309-2160x1620

Befour




20190830_174655-2160x1620


After


当方のブログ記事は、リンクフリーにしております。
必要な画像で、引用画像以外はご自由にお持ち帰りください。
ご報告等は、特に必要ありません。(*^。^*)

  2練馬大長尻大根 9-1


最近中国産のにんにくの種が出回っている。

スーパーの食用にんにくを、3年前に種に使ってみたらちゃんと芽がでた。
それまでは発芽抑制剤が使われていたみたいで、発芽しなかったようだ。
日本産のにんにくと違って、中国産のにんにくは評判が悪い。
それは、発芽抑制剤を使って長い期間店頭に並べてあるので、水分が飛んでしまって摩り下ろしてもぱさぱさ感があったり、香りが無かったりしたためである。また、中国がどんな農薬を使っているかわからないので、安くても買わなかった。

発芽抑制剤を使わなくなっても、店頭での売れ具合が思わしくないので、戦略を変えて種用で全国的に販売し始めた感がある。中国産の種であっても、日本で作れば中国生まれの日本産となる。

16個で1000円ぐらいである。1個60円ぐらいだ。
ホワイト六片は種屋さんで1個350円だった。6倍の値段だ。

20190830_112956-1620x2160



私の友人が、今年中国産の種にんにくを作ったところ、びっくりするほどの大きさだった。
友人の作り方は、元肥に鶏糞をびっくりするほどたくさん撒いて育てる。
調べてみると鶏糞は、畑に撒いてから1ヶ月ほどで窒素分がなくなってしまうようだ。そして、カリとリンが豊富に含まれているようだ。つまり友人の育て方は、初期の段階では窒素分が働き、にんにくを大きく育て、1ヶ月を過ぎたあたりからリンとカリによってにんにくを大きく育てる方法だ。
収穫前に見たときには、たまねぎぐらいの感じのにんにくに育っていてびっくりした。
それで、種用に大き目のにんにくを10個ほど頂いた。
それが、以下の画像である。YUKIさんから頂いた紫色系のにんにくと同じぐらいの大きさになっている。ミニトマトのアイコと一緒に撮ったので、その大きさが比較できる。

画像左下の購入した中国産の種にんにくが小さく見える。
友人のにんにくは、購入にんにくと同じように13片ぐらいあって、その中から大き目のものが平均して6片ぐらいあった。



explorer




友人の鶏糞多施肥によるたまねぎ、にんにく、ジャガイモの巨大化と多収穫を図る方法

鶏糞量とたまねぎの大きさ
http://nojisan1.livedoor.blog/archives/17678419.html

友人の鶏糞の施肥量と鶏糞のN・P・Kの量
http://nojisan1.livedoor.blog/archives/17520966.html

当方のブログ記事は、リンクフリーにしております。
必要な画像で、引用画像以外はご自由にお持ち帰りください。
ご報告等は、特に必要ありません。(*^。^*)

  2練馬大長尻大根 9-1




雨の日は、秘密基地の中での作業が主である。
ラリーノF2の種採りをやった。
春には雄花がほとんど咲かなかったが、夏にはたくさんの雄花が咲いた。
F2同士の自家受粉ができたと思う。
来年度になると思うが、F3はどのようなきゅうりが発現するのだろうか?

20190830_111710-2160x1620



割ってみたが、あまり受粉していなかったようだ。
しっかりとした種が少ないように見える。

20190830_140701-1620x2160



3本分の種には少ないようであるが、数は十分すぎるほどであった。
半分以上は、水に浮いてしまって受粉していないようだった。

20190830_141746-1620x2160



ラリーノF2の生っている姿である。13cmから15cmぐらいがちょうど食べごろである。
ラリーノは10cm以下であるので、交配雄の地這いきゅうりとの中間の大きさである。
この大きさの中型のきゅうりを固定したいと考えている。

20190822_074531-2160x1620



当方のブログ記事は、リンクフリーにしております。
必要な画像で、引用画像以外はご自由にお持ち帰りください。
ご報告等は、特に必要ありません。(*^。^*)

  2練馬大長尻大根 9-1




以下の資料と太鼓の音源は啓誌熟さんからの転載です。

私の父親は32年前の1987年亡くなった。72歳であった。
記事は、その3年前のものである。 35年前の記事である。

私も父の亡くなった歳に近づいている。
顔つきは似ているが、髪の毛は父のほうが多いようである

太鼓の輪



『野島 虎雄氏(69歳)

『正月の風物詩といえば、コマ回しやたこ揚げ、羽根つきといろいろあるが、しし舞いなどもいまでは見かけなくなったが縁起物として親しまれている。しし舞いにつきものなのが、笛に太鼓。しし舞いの太鼓ではないが高萩市上手綱に住む野島虎雄さん(六九)は、10年以上も各地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。

野島さんは574月に、市内松岡にある旧水戸藩家老中山備前守の氏神さまである丹生神社(たんしょう)に伝わっていたササラが復活された際、ササラ舞いの振り付け、太鼓の打法の指導にあたった人だ。

太鼓と野島さんの縁は、祖父の繁次さん※が、山鹿流太鼓の師範だったことから。山鹿流といえば、テレビ、舞台などで必ず暮れになると放映・上演される「忠臣蔵」のクライマックス、吉良邸討ち入りの時、大石内蔵助が打つ太鼓、あれが山鹿流の陣太鼓。

 

「祖父が太鼓を教えていた関係で“門前の小僧、習わぬ経”の例えではありませんが、見よう見まねで覚えたんです。とにかく当時はお弟子さんも多く、1日中太鼓の音が響いていたんですよ。いやでも覚えてしまいます」

戦後は一時、祖母さんのいる柴田サーカスにいたこともあるというだけに、手品・曲芸はお手のもの。その器用さを見込まれてか、10数年来、地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。下級の子供たちには神輿囃子・矢車太鼓・昇殿神楽※の3種を指導した。

子供会の4年生以上になると、この3種の太鼓打法をマスターすることになる。インスタントではなかなか覚えることができない、実演伝承なので、難しい面もたくさんある。ただ、太鼓の良さは、野球などではレギュラーにならなければ試合に出場できないが、太鼓はみんながレギュラー。だれもが一緒になって打つことが出来る。

58年の11月には、親と子、祖父母を加えた三世代の集いで、日ごろ鍛練した太鼓を披露、大好評だった。これだけではなく、7年前から太鼓を通じて老人クラブ、子供会、そして親たちというコミュニティーの輪が広がっている。その一番の功労者は野島さん。

「高萩だけでなく、もっと全国の人たちにも太鼓打法を教えてあげたい」

と野島さんの夢は大きい。』




上手綱みこしはやし



134号 茨 城 朝 日 昭和59年(1984)1月1日・4日(2)

■上手綱に伝わる神輿囃子の由来

『文久元年419日、藩主中山備前守より朝香神社に神輿が奉納された。それを記念すべく祭式が行われ、催されたのが、神輿御神楽太鼓と称する御囃子である。

その御囃子とは、慶長8年徳川家康公が将軍の位を賜った時、天海僧上が催したという御囃子があるが、その連係だという。

その御囃子を、藩の太鼓師二代目にあたる白土円覚なる人物が、神前にて演じたのが始まりで、以来、祝いとして若者たちが神輿を担ぎ部落を練り歩くことが、明治7年のころまで続いた。

そのころ、太鼓師三代目にあたる小和田の白土市郎次氏が、数多くの弟子にその御囃子を教育され、他町村にまで広めたが、明治14年衰退の一途をたどり、その後、減衰していったという。

昭和527月、高萩市一円に御神輿祭が開催されることになり、大正13年ごろに太鼓師四代目より伝承されていた物を、野島虎雄氏が教授。下組 北組子供会会員に指導していった。

以後、祭礼に執行し、毎年その祭日に行うようになったという。』




山鹿流太鼓とは?

; 矢車太鼓 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/201908301846128e2.mp3


; 昇殿神楽 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/20190830184727b3f.mp3



; 神輿囃子 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/20190830184839e9e.mp3


; 篠笛と締太鼓 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/20190830184931343.mp3




≪以下は、過去記事より転載≫

『啓誌熟』より転載
もっと太鼓の“輪”を広げよう
                        2015/01/1512:00 1 0

■太鼓の打ち方指導を通して地域のコミュニティーづくりに貢献する

野島 虎雄氏
(69歳)

『正月の風物詩といえば、コマ回しやたこ揚げ、羽根つきといろいろあるが、しし舞いなどもいまでは見かけなくなったが縁起物として親しまれている。しし舞いにつきものなのが、笛に太鼓。しし舞いの太鼓ではないが高萩市上手綱に住む野島虎雄さん(六九)は、10年以上も各地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。


たつご子供会の「市民ばやし」演奏



野島さんは57年4月に、市内松岡にある旧水戸藩家老中山備前守の氏神さまである丹生神社(たんしょう)に伝わっていたササラが復活された際、ササラ舞いの振り付け、太鼓の打法の指導にあたった人だ。


丹生神社(三神社)の棒ささら




太鼓と野島さんの縁は、祖父の繁次さん※が、山鹿流太鼓の師範だったことから。山鹿流といえば、テレビ、舞台などで必ず暮れになると放映・上演される「忠臣蔵」のクライマックス、吉良邸討ち入りの時、大石内蔵助が打つ太鼓、あれが山鹿流の陣太鼓。

山鹿流の陣太鼓



「祖父が太鼓を教えていた関係で“門前の小僧、習わぬ経”の例えではありませんが、見よう見まねで覚えたんです。とにかく 当時はお弟子さんも多く、1日中太鼓の音が響いていたんですよ。いやでも覚えてしまいます」

戦後は一時、祖母さんのいる柴田サーカスにいたこともあるというだけに、手品・曲芸はお手のもの。その器用さを見込まれてか、10数年来、地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。下級の子供たちには神輿囃子・矢車太鼓・昇殿神楽※の3種を指導した。





子供会の4年生以上になると、この3種の太鼓打法をマスターすることになる。インスタントではなかなか覚えることができない、実演伝承なので、難しい面もたくさんある。ただ、太鼓の良さは、野球などではレギュラーにならなければ試合に出場できないが、太鼓はみんながレギュラー。だれもが一緒になって打つことが出来る。

58年の11月には、親と子、祖父母を加えた三世代の集いで、日ごろ鍛練した太鼓を披露、大好評だった。これだけではなく、7年前から太鼓を通じて老人クラブ、子供会、そして親たちというコミュニティーの輪が広がっている。その一番の功労者は野島さん。

「高萩だけでなく、もっと全国の人たちにも太鼓打法を教えてあげたい」
と野島さんの夢は大きい。
※改訂
第134号 茨 城 朝 日 昭和59年(1984)1月1日・4日(2)


■上手綱に伝わる 神輿囃子の由来

文久元年4月19日、藩主中山備前守より朝香神社に神輿が奉納された。それを記念すべく祭式が行われ、催されたのが、神輿御神楽太鼓と称する御囃子である。


茨城県高萩市上手綱 朝香神社




その御囃子とは、慶長8年徳川家康公が将軍の位を賜った時、天海僧上が催したという御囃子があるが、その連係だという。

その御囃子を、藩の太鼓師二代目にあたる白土円覚なる人物が、神前にて演じたのが始まりで、以来、祝いとして若者たちが神輿を担ぎ部落を練り歩くことが、明治7年のころまで続いた。

そのころ、太鼓師三代目にあたる小和田の白土市郎次氏が、数多くの弟子にその御囃子を教育され、他町村にまで広めたが、明治14年衰退の一途をたどり、その後、減衰していったという。

昭和52年7月、高萩市一円に御神輿祭が開催されることになり、大正13年ごろに太鼓師四代目より伝承されていた物を、野島虎雄氏が教授。下組 北組子供会会員に指導していった。

以後、祭礼に執行し、毎年その祭日に行うようになったという。』


父は72才の時に亡くなった。
私が32オの時であつた。
この記事は父が亡くなる3年前のものだ。

私は父が太鼓をたたく姿を見たことがなかった。

私が生まれて2ヶ月目の時に、母は脳溢血で倒れた。

その時まで父親は定職についていなかった。
今風に言えば、芸人であった。

当方のブログ記事は、リンクフリーにしております。
必要な画像で、引用画像以外はご自由にお持ち帰りください。
ご報告等は、特に必要ありません。(*^。^*)

  2練馬大長尻大根 9-1


大先輩の畑の囲いフェンスにおのればえのトウガンがなっている。かなり大きくなっている。
20190826_090248-1620x2160

毎年同じ所に育つ。そしていつも貰っている。
20190826_090302-1620x2160

花も咲いている。
20190826_090317-1620x2160

大きくなったものを頂いた
20190828_074626-2160x1620



当方のブログ記事は、リンクフリーにしております。
必要な画像で、引用画像以外はご自由にお持ち帰りください。
ご報告等は、特に必要ありません。(*^。^*)

  2練馬大長尻大根 9-1


↑このページのトップヘ