のじさんの徒然草

200坪の畑に美味しい野菜を育てています。 都会の近くの山に囲まれた菜園の横に秘密基地を建て、田舎暮らしを楽しむ、そんなライフスタイルの情報を発信しています。

Category: 海外旅行

イタリア旅行1
4月5日から12日までの8日間のイタリア旅行
 
初日は成田からロンドンまで約12時間かかり、3時間の待ち合わせの後、イタリアのミラノまで1時間40分の長旅であった。ロンドンでは8時間の時差があり、イタリアでは7時間の時差があった。
 
成田を発ったのは午前11時頃、ロンドン着午後3時(日本時間午後11時)、3時間の待ち時間を経て、ロンドン午後6時発、ミラノ午後9時着(日本時間時間午前4時)となった。
 
結局17時間かかったことになる。朝5時頃起きて家を出発し、次の日の朝の4時頃イタリアについたことになり、約24時間の移動時間を要したことになる。
 
4月6日の観光 イタリアミラノ  
 
スフォルツァ城;1466年に完成。レオナルド・ダ・ビンチも建築に関わったという。
 

 

 



 
ミランのドゥオーモ
ドゥオーモ(Duomo)はイタリア語で、イタリアでの街を代表する教会堂の事。最初の石が置かれてから約500年後の1813年に完成。
 
 
 

 
 

 
 



ドゥオーモ(Duomo)内部
 

 





ドゥオーモ(Duomo)内部のステンドグラス
 

 




 
ミラノのシンボル、ガッレリア
イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設された。


 
 

 

 

 
 



水の都 ベネチア
ベネチアの位置
 

 
 

 
 

 
 
 




 
 
[2012/04/12 18:32

イタリア旅行 ベネチア観光
「世界中で最も美しい都」という表現が誇張ではない町、「ベネチア」。人口は6万人ぐらいだと言うが、毎日5,6万人の観光客が訪れるという。ベネチアは港から船に乗って上陸する。車では行けない。そのため排気ガスも無く、静かな水の都である。
 

 
 

 
 
サン・マルコ広場はヴェネツィアの中心的な広場で、世界で最も美しい広場とも言われている。
 

 
 

 
 

 
 
ベネチアの時計台
 

 
 
 

 
 

[2012/04/12 18:56


イタリア旅行 フィレンツェ観光
世界遺産であるフィレンツェ地区の観光
 
ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館。
約1時間の観光
 
ウフィツィ美術館前の広場の彫刻 ダビテ像


 
 

 
 
 

 
 
ウフィツィ美術館の入場券


 
 
ヴィーナスの誕生
 

 
 
ウフィツィ美術館の窓から見えるヴェッキオ橋
 

 
 
 
 ウフィツィ美術館の窓から奥のパラッツォ・ヴェッキオ


 
 
フィレンツェ サン・ミニアート・アル・モンテ教会


 
ミケランジェロ広場の丘から見るフィレンツェ


 
 





[2012/04/13 09:48

世界遺産「ピサのドゥオモ広場」
フィレンツェから90kmのバス移動でピサの斜塔のあるトスカーナ州に向かう。
 
トスカーナ州(Toscana)は、イタリア共和国中部に位置する州。州都フィレンツェ。 イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェをはじめ、ピサ、シエーナなど多くの 古都を擁している。
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
世界遺産「ピサのドゥオモ広場」
 
ピサの斜塔
 

 
 
大聖堂(ドゥオモ)は、緑の芝生が生える広場の中央にそびえる。
 

 
 

 
洗礼堂は、大聖堂の西側に建っている円筒形の建物

 
ピサの斜塔を支えてみる
 

大聖堂(ドゥオモ)

 
 
 
 

 
トスカーナ州のファームハウスでの昼食
 




 


[2012/04/13 13:28]


イタリア旅行(サン・ジミニャーノ)
サン・ジミニャーノ(San Gimignano)は人口約7千人のイタリア共和国トスカーナ州のコムーネ(自治体の最小単位)の一つである。ユネスコ世界遺産となっている。
 
サン・ジョバンニ門 この門から街の中に入る
 

 
 
 

 
サン・ジョバンニ通り

 
サン・ジミニャーノはフィレンツェの南西50kmほどの丘陵地帯にある街で、13~14世紀にこの地方の商業や貿易の中心地として栄えたところ。
しかし時の流れとともにその繁栄も過去のものとなる。老朽化した塔は危険なため取り壊されていったが、経済的な理由で取り壊すことも出来ず、在るがままにされて残った塔が現代になってこの街の観光の目玉となった。
 
どこか日本の白川郷のかやぶき屋根の風景が現代に観光価値を生み出したのに似ている。
 

 
数々の塔は都市内での権力争いの名残りであり、最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てた。
 

 
 

 
トスカーナの風景
 
サン・ジョバンニから眺めたトスカーナの風景。

 
 
 

 
 
今世界中で有名なジェラート(アイスクリーム)店
 

 
 
 
 
ジェラート(アイスクリーム)を食べる
 

 
 
サン・ジミニャーノのフジの花
 

 
 
イタリアで不思議に感じたことは、フジの花と桜とレンギョウの花が同時に咲いていることだ。地中海性気候(日本と比べると冬は比較的温暖で、夏はそこそこ暑いけど日本ほどジメジメ暑くはない)ためだろうか。
 
[2012/04/13 18:57]



ナポリからカプリ島観光
フィレンツェからナポリまでは約600kmの大移動。イースターでローマのバチカン美術館は閉館のため、コースが変更になった。そのためユーロスター(イタリアを走る高速列車 時速250km~300km)を利用することとなった。バス移動よりは快適であった。
 
ユーロスター
 

 
船でナポリからカプリ島へ渡る
 

 
 
ナポリの位置とカプリ島
 


 

 
 
カプリ島では有名な「青の洞窟」の観光予定であった。
しかしながら、快晴の良い天気であったがほんの少し波があったため中止となった。
 
 
「青の洞窟」参考画像


 
カプリ島の散策となり、リフトで頂上まで登ることとなった。
 

 
 
リフトからカプリ島の景色を撮る

 
 
 
頂上からの遠方の景色

 
 
 
頂上から海面を見下ろすと足がすくむ。

 
 

 
ナポリからローマまでは235km バスでの移動であった。フィレンツェ→ナポリ→ローマと一日で835kmの移動をしたことになる。
 
ローマのホテルと次の日の朝食
 

 
 

 
 

 
 

 
 
 

[2012/04/14 10:52]


世界遺産ローマ歴史地区観光
 
コロッセオは188m-156mの楕円形で、高さは48m、45,000人を収容できたという。実物を見ると迫力があり、圧倒された。
 

 
 

 
 
ローマの道路で見かける松の木。下枝を払ってしまい上だけ丸く残る。「笠松」と呼ばれている。
 

 
 
 
トレビの泉
 

 
 

 
 
 
スペイン広場 間近にあるスペイン大使館にちなんで命名されたとのこと。人でいっぱい。
 

 
懐かしの「ローマの休日」の名場面

 
 

 
そして、こちらも懐かしの名場面 真実の口
 

 
 
観光場所に設定されていなかったので、ローマにある三越デパートの中にあるレプリカで記念撮影
 

 
[2012/04/14 11:20


ローマ バチカン市国観光
バチカン市国は、イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家。
 

 
 
 
1929年教皇とムッソリーニとの間で合意が成立し独立国家となった。条約内容はバチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。

 
 
 

 
 

 
 

 
地図の間 天井画と壁の両側には地図の刺繍がある

 
 
 
有名なトロイの神官ラオコーンの像。ローマ時代に浴場に飾られていたと云う。


 
ミケランジェロが描いた天井画像
 

 
 

 
 
スイス人衛兵。多いときは200人ほどいたという。
 

[2012/04/14 11:47


ドイツ ケンプテン No5-1
4/6(日)ドイツ観光   午前中の見学
 
ケンプテン
 

 
 

 
ホーエンシュバンガウ
 
『ホーエンシュヴァンガウ城は、ドイツ、ホーエンシュヴァンガウにある、19世紀に建築された城である。マクシミリアン2世によって改築された。
 
1832年、マクシミリアン2世は12世紀に建設されたが廃墟になっていたシュヴァンシュタイン城を購入した。そして4年ほどの歳月を費やし、古城を改築した。
 
これがホーエンシュヴァンガウ城である。ルートヴィヒ2世は幼年時代をホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。』
 

 
 
 
 ノイシュバンシュタイン城から見下ろした霧の中のホーエンシュヴァンガウ城
 

 
マリエン橋
 
 『1866年にルートヴィヒ2世の命により、王室建設長官ゲルバーの指揮のもとでマン社の前身企業によって、現在のような鉄橋が架けられた。
 
この橋の建設に用いられた技術―滝上90メートルの高さに、両岸の岩場へ吊桁を直接渡すというもの―は、当時の橋梁建設としては画期的なものであった。
 
橋は1984年に修復され、吊桁部分が取り替えられたが、橋面は建設当時のままである。 』
 
 

 
 
 

 
 

 
 

 
ノイシュバンシュタイン城見学
 
 
 

 
 「ノイシュヴァンシュタイン」 (Neu Schwann Stein)は、「ニュー スワン ストーン」( News Swan Stone)
つまり、「新しい白鳥の岩」という意味になる。
まさに、険しい岩山のてっぺんに、美しい白鳥のようなイメージの城である。
 

 
『おとぎ話に出てくるような美しさのノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーランドやディズニーランド・パリ、2005年に開園した香港ディズニーランドにある眠れる森の美女の城のモデルの一つとしても知られている。』
 
 
≪美しくも悲しい歴史を持つ城≫
 
『このノイシュヴァンシュタイン城は、オーストリア国境近くにバイエルン王ルートヴィヒ2世により建設された城。
1869年に着工し、建築に17年かけたが、1886年2世失脚と同時に未完成のままとなっている。
2世は1845年8月25日にミュンヘンで生まれ、18才でバイエルン国王の座につき、政治経験は少なく、実際の政治からは離れていた。 

山々を歩き、孤独な生活を送った2世は、ワーグナーを愛し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれ、彼に 膨大な額の援助をした。
そして 自分の美学を追究し、それがノイシュヴァンシュタイン城建築へと向かったと言われている。
どの部屋も豪華で、またワーグナーのオペラの場面が壁画として描かれており見応え十分。
建設費用は現在の金額に換算して200億円以上になるそうだ。
 
建築資金と借金が増大してきたため、政府は、ルートヴィッヒ2世を精神病と鑑定して国王の座から実務上追放する。 
1886年、ノイシュヴァンシュタイン城から連れだし、ミュンヘンの近郊のベルク宮へ移す。1886年6月13日、2世は医師と散歩に出かけたまま戻らず、医師とともにシュターンベルク湖で水死体となって発見された。
 
1869年、24歳の時に着工し、
17年の歳月をかけたノイシュヴァンシュタイン城も構想の 三分の二が未完成で、ルートヴィッヒ2世が ここに住んだ期間は僅か102日間でだった。』
 
 

 
 

 
 
 

 
 フランス人のこども達がなにやら不思議な日本人女性に興味を持って集まってきた。彼女はフランス語もドイツ語も英語も話さない。
しかしながら、一発でコミニュケーションをとる天才的な魅力を持つようだ。
あっという間に人気者になり、モデルになってしまう。
 

 
 
愛想の良いドイツ人夫婦の赤ん坊。 真っ白な肌で、食べちゃいたくなるぐらい可愛らしい。
 

もちろん、ママのほうだけど。 

 
 
 

 
なんと、雪割草が自生していた。
 

 
 
 
岩にへばりついて咲いていた野の花。名前はわからない。
 

 
こちらの花は、スミレだと思う。

 
 
これは、私の家の花壇にもあるジュリアンだと思うが、こちらは山の斜面に自生している。
 

 
 
この花も、葉っぱを日本の山でも見たことがある。しかし、名前はわからない。
 

 
 
友だちが増えた。
茨城県の夫婦と東京に住む中国残留邦人夫婦である。

 

 
以下 No5-2に続く
 
 
[2014/04/11 19:30


ドイツ ロマンチック街道 No5-2
4/6(日)ドイツ観光   午後の観光
 
 
 
 

 
 
 
 近くのレストランでの昼食である。
 

 

 
 
 
 
 
まず、野菜サラダ。
お水は、めずらしく無料。
  

 
 
 
続いて、メインディッシュ。
ジャガイモと白身魚。
 

 
 
 
最後にデザート。
チョコレートパンケーキ。
 以上。
ドイツのダイエットメニューでした。

 
 
 
 
世界資産ヴィースの巡礼教会
 

 

 
 
 
『1738年、ある農家の夫人がシュタインガーデン修道院の修道士が彫った「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受けたところ、6月14日このキリストの像が涙を流したという。
 
教会ではこれを奇跡とは認定しなかったが、この噂は「ヴィースの涙の奇跡」として広まり、巡礼者が農家に集まるようになった。
 
1740年には牧草地の小さな礼拝堂に移したが、巡礼者は増える一方であった。
 
そこでシュタインガーデン修道院が先頭に立ち、一般からの浄財を募るなどして建設資金を捻出し、1746年から建造されたのがこの教会である』
 
 
 
 
内装画

 
天井画

 
 

 
 
 
 
ロマンチック街道

 
 
 
 
ディンケルスビュール
 

 
 
 
建物の壁画の意味とは?
 

 
『30年戦争中の1632年、ついにスウェーデン軍がディンケルスビュールに侵攻してきた。屈強なスウェーデン軍を前にもはやなす術はなく、街を明け渡す(Stadtübergabe)しかなかった大人たちの前に現れたのが、塔の見張りの娘ローレ。
 
街の子どもたち全員を引き連れて、スウェーデン軍の隊長に「街を破壊しないで!」と懇願した。
 
その結果、現在まで街が残っていることからもわかるように、隊長は子どもたちの願いを聞き入れたのだ。
 
破壊から街を救った子どもたちの活躍を讃え、この小さな勝利を記念して毎年7月には10日間にわたって盛大な祭り「Kinderzeche」が開催される。』
 
 
 
 
手作り飴屋さんを発見。
 

 
小さなお店は、あっという間に、女性客でいっぱいになる。
 

 
 
 
 
ヨーロッパ人は、太陽の光が大好き。
とくに春先は、みんなお外でお食事をする。
 

 
おや?いつのまにか、ちゃっかりと紛れ込んでいる夫婦がいた。
 

 
写真大好きな女性もいた。
 

 
 
 
ローテンブルク
ホテル ラッペンローテンブルクオブデアタウバー
 

 
 
 
 
 
ホテルの部屋のベランダに出てみると、なんと外では、つながっていた。
しかも、半地下状態の一階の部屋であった。
ベランダの外は、普通の道路であった。
 
 

 
「はーい!みんな ともだち! いいとも!!」
 

 
「こちらもつながってますね。」

 
 
 
 
 
こちらの夫婦、旦那様は、なんと「手品師」だった。
ボランティアで、保育園や老人ホームで、手品を披露しているそうだ。
 
「鳩をだして!」と頼んだが、「今はちょっと、無理。」と断られた。
 

 
 
 
 
赤いシャツの旦那様は、集合写真では、いつも一人で撮る。あやしい。
額にめがねをかける旦那様には、お薬を頂いた。胃の薬である。
今回は、奥さんを日本に残し、一人旅である。あやしい。
 
 

 
 
久しぶりにビールを頼んだ。
ドイツビールにしては、さっぱりしている。
ライトとか、言ってたな。
 

 
 
 
これが有名なドイツのソーセージ。
それに、ジャガイモが2個。
以上がメインディッシュ。
 
ふざけている。
 

 
 
 
 
デザートだって。
普通の菓子だ。
 
 

 
 
 
これだけの食事で、朝まで持つのだろうか。
私は、胃酸過多で、食欲がなかったので、ちょうど良かったが。
 
 
回りを見渡しても、みなさん不満げな表情であった。
顔が心なしか怒っているようだ。
 

 
 
 
 
 
 
 
と言うわけで、何かおいしいものはないかと、夜の探索に出かけた。ホテルから100mの所に明日の見学地「ローテンブルク」がある。
 
ドイツの夕方は8時頃まで明るい。
 

 
 

[2014/04/12 13:08]

ドイツ ローテンブルク  No6-1
4/7(月)ドイツ観光  最終日
ローテンブルクのホテル
 

 
 
今回の旅ですっかり仲良しになったお友達
8日間のヨーロッパ観光もいよいよ最終日となった。
 

 
 
 
女性二人旅の彼女もバスの運転手が気に入ったらしい。
 

 
 
 
今回のツアー「旅物語」の参加メンバー35名のペアに印をつけてみた。
印は頭の上あたりの☆マークが同じ人がペアである。
間違っているかも知れない。
 

 
 
みなさんが空を眺めているのは、真っ青な空に浮かぶ綺麗な飛行機雲のようだ。
出発の時間を待っている。
 

 
 
最初に観光するのは、昨夕にホテルから歩いて100mの所にあるローテンブルクである。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー - Wikipedia
 
 
ローテンブルクの城壁に登って、城壁から旧市街を見学する。
 
『ドイツ南部、バイエルン州のローテンブルクの旧市街を囲む城壁・市壁。
 
1380年に建設されたもので、総延長は約2.5kmである。城壁の上には屋根のついた回廊が設けられていて、町を一周することができる。』

 
 
回廊に登る。

 
 
 
こんな所に、日本の提灯が?
 

 
マルクト広場
『市庁舎の前には、マルクト広場と呼ばれる広場があります。マルクト広場とはドイツのどの都市にもあるもので、マルクトはドイツ語で「市場」のことです。』
 
市庁舎
 
現在は工事中であった。
 

 
実際の市庁舎

 
 
聖ヤコブ教会
 

 
 
リーメンシュナイダーの「聖血祭壇」
 

 

 
 
 
工事中の市庁舎の説明を聞く
 
[2014/04/12 19:33


ドイツ  ハイデルベルク No6-2
4/7(月)ドイツ観光  最終日の午後
 
ツアー最後の食事 参加者総勢35名である。
 

 
 
 

 
 

 
 

 
ハイデルベルク
 
『ハイデルベルクは、その教育機関で広く知られている。なかでも名声が高いのは、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクでである。この大学は1386年に創設された、現在のドイツ連邦共和国の中で最も古い大学である。』
 

 
文化と見所
 
『ハイデルベルクは、第二次世界大戦の空爆によって破壊されることなく、中世そのままのたたずまいを示すバロック様式の旧市街が遺されている数少ない大都市である。』
 
ハイデルベルク城

 
 
 

 
 
 
 
 
『みなさん、ドイツ語の「P」「b」の発音は、難しいのですよ。[p]と[b]. 唇を閉じたまま、息を勢いよく出すと出る音です。空気だけ「プッ」出すと、ドイツ 語の[p]、「ぶ」というつもりで息を吐くと、ドイツ語の[b]になります。
ここで大事なのは、 はっきりと「ぷ、ぷ」と言わないことです。
こちらは、おならのぷっですよ。あらぁ、わたくし、ちょっと、はしたなかったかしら。
ふふふふふ。』と、楽しいガイドさんであった。
 

 
ハイデルベルク城の大樽
 

 
フリードリヒ館
 

 
 
 
オットハインリヒ館
 

 
アルテ・ブリュッケ公式な名称は「カール=テオドール橋」である。
この橋は、ドイツで最も古い橋の一つである
 

 
 
 

アルテ・ブリュッケの門塔
 

 
 

 
 

 
アルテ・ブリュッケのサルの像
 

 
ツアーの仲間たち
孫と一緒だったり、夫婦であったり、友だち同士であったりと様々である。
4月1日から4月8日の旅行の参加条件をクリアーできた人たちである。
 
現役のサラリーマンなら、ひんしゅくものであるが。
 

 
 

 
 

 
 

 
 


 
 

 
 
 
 
海外旅行を楽しむ人は、どのような思いがあるのだろうか?
 
 
私たちの場合は、妻の子供の頃にさかのぼる。
 
「兼高かおる世界の旅」にあこがれて、将来は彼女のように世界を旅してみたいと小さい時からの、並々ならぬ思いがあったわけである。
 
そのことが、今ようやく実現しているのである。
 
 
『「兼高かおる世界の旅」は、世界各地の、いまだ日本人に馴染みのない国々をめぐって、その風俗、文化、歴史や、地理、物産などを紹介する初の本格的海外取材番組として1959年にスタート。
 

日曜の午前中は、この番組を見なければ1日がはじまらないとまで言われるほど視聴者に浸透していた。この番組で、兼高は、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーを全て1人でこなした。
 
 

彼女自身の持つキャラクター、進行役・芥川隆行とのやりとりも絶妙で、個人名を冠した番組としては最も長い、31年もの長寿番組となった。訪れた国の数は150カ国あまり、地球を180周した計算になる。サルバドール・ダリやケネディ大統領などの著名人から極北の村人や砂漠の民とまで語り合い、気球でのアルプス越えやジャングル踏破などの冒険にも挑戦。
 
 

民間人の海外渡航が自由にできなかった時代、「世界をお茶の間に運ぶのが私の仕事」と言う言葉通り、女性の目で見、女性の手で世界に触れてきた貴重な旅の数々が、この番組にたっぷりとつまっている。』
 
 
フランクフルト空港
 
4月7日夕方に飛行機に乗り、羽田に4月8日の午後3時頃に帰国する。
飛行時間は約11時間である。
 

 
 
 
[2014/04/13 17:23]

スイス ベルン No3
4/4 金
世界遺産ベルン旧市街観光
 
フランスの高速鉄道。最高時速320キロ。
 


パリ市にある「リヨン駅」の時計台
 
 

 
 

 
 
「リヨン駅」という駅名はパリからリヨンへ向かう鉄道の起点、あるいは旧パリ・リヨン鉄道の駅という意味である。パリ市内やその近郊では単に「リヨン駅」と呼ばれる。なお、リヨン市には「リヨン駅」という名の駅はない。

 

 
定年間際で病気を患い早期退職したそうで、その時に人生観が変わり海外旅行を楽しんでいるとのことだった。
 


 
大学生のお孫さんとの二人旅。5日目にご婦人には大変にお世話になった。
また、大学生のお嬢さんにもWiFiのつなぎ方を教えていただいた。
 
 


2階席の真ん中あたりに食堂車があり、軽食や温かい飲み物を頂くことができる。
 
 
 


パリからリヨンを通ってジュネーブに着く

 

 
 

 
 


スイスの物価と月収
 
『スイス人の平均月収が50万円、 最低賃金は34万円 。レジのアルバイトは時給1,500円、家のお手伝いさんは時給2,500から3,000円。
 
物価ランキングでも世界一高いスイスで日常生活で見慣れた価格は、卵10個が 約580円、トイレットペーパーは12ロールで 約750円 など等。(ちなみに1.5リットルの水は約950円。
 
市内中心部の2LDK(60~70平方メートル)の家賃は、約16万円から約25万円。』
 


 
ベルン

 

 
 


ベルンのバラ公園にはバラではなく水仙が咲き誇っていた。

 

 
 
ベルン熊公園
 
熊が4匹飼われていると言うが、3匹見つけることが出来た。
 

 
 


 
『ベルン(Bern)という市の名前の語源については、幾つもの説がある。その一つにベルトルト5世が近隣の森で、一番初めに仕留めた動物が熊だったことから、 熊=BärにちなんでBernとされたと言う説が好まれているようだ。』
 
 

 川を挟んだ隣がバラ公園、そこからのベルン旧市街の景観

 
 
 
バラ公園の土手には、ソメイヨシノの桜の花が満開だった。

 
 
ベルン旧市街地に入る
 


大聖堂
 

 
 

 
 


 

 
時計塔
 


時計台の前でパフォーマンスをする大道芸人に気を取られてしまった。
 


グリンデルワルト
 
 

 

スイスの大学進学率
『人口比でノーベル賞受賞者数は世界最多、国民一人当たりの特許申請率も世界トップレベルのスイス。大学生の学力低下が叫ばれて久しい日本とは対照的に、スイスの大学は教育レベルの高さで国際的高水準を保っている。大学に進学する若者は約20%と、スイスの大学進学率はかなり低い。その理由は、9年間の義務教育終了後、大学進学に向けた普通高校と、学校と実務を兼ね備えた職業訓練とに教育の道が分かれるからだ。』
 
『中間試験では4割の学生が試験に落ち、さらに卒業試験では2割の学生が落ちた。卒業試験には六つの口答試験と三つの筆記試験があり、そのうちどれか一つでも合格しないと、半年後にまた全試験をやり直すことになる。再試験にも失敗すると、もうその学科にはいられない。それまでの5、6年間が無駄になってしまう』
 
 

 

ベルデーレホテル
スイスのホテルは四つ星だった。
二部屋あり、寝室の横にはトイレとシャワールームが別に備え付けられていた。
もちろん居間の隣のシャワールームはバス付きであった。
 

 
手前は居間で奥が寝室である。
 

 
 


しかしながら、私たちの部屋から見えるのは中庭だった。
一方、他の方達は、スイスの山々が間近に見える最高の部屋であった。
 

 
 

 
 
 
 

 
(緑色) 軍隊を保有していない国家。
(青色) 志願制の国家。
(オレンジ色) 3年以内に徴兵制を廃止予定の国家。
(赤色) 徴兵制を施行している国家。
(灰色) 不明。

 
ふと感じたことは、日本はアメリカ頼りで、今の自衛隊で国が守れるのかと考えてしまった。ま、中国や韓国が攻めてくるのは、私が死んだ後だろうから。いいか。
 
 
 
 
[2014/04/10 07:17



スイス ユングフラウ No4
4/5(土)スイス観光
 

 
 
本日は、世界遺産ユングフラウ観光である。観光時間約6時間。
 

 
 グリンデルワルトの朝の風景
 

 
クライネ・シャイデック駅でユングフラウ鉄道に乗り換え、ヨーロッパ最高地点の鉄道駅、ユングフラウヨッホ駅へ向かう。
 
 

 
 

 
 

 
 

 
 
 

 
 

 
 
ユングフラウヨッホ駅
 

 

 
 
駅からエレベーターで標高約3571mのスフィンクス展望台へ登る。

標高3571mのスフィンクス展望台

 
  

 
 
手に持っているのは、ユングフラウヨッホ訪問証明書である。
 

 
 ユングフラウ鉄道開通100周年記念アトラクション
 
 

 
 
 
 氷の通路を通って行くと、そこには氷の作品があった。
 

 
 
 
 
展望台の外に出ると、そこは氷点下の世界。
あっという間に手はかじかんでしまった。
 

 
 
寒さの中、これでもかと記念撮影。
 

 
 
 世界遺産アレッチ氷河 

 
 
 
待ちに待った昼食。
ユングフラウヨッホ駅のレストランでのスイス料理を食べた。
名前は忘れてしまった。
 
 

 
 

 
 
なにやら、怪しい外国人が迫ってきて、キャーキャー騒ぎはじめた。
画像には見えないが、面白い日本人女性を見つけて、喜んでいるようだった。
 
 
パトラッシュを中心にして35人の記念写真
 

 
 
 
ツアー客の中に、どう見ても怪しい人物がいた。
 

 
全員が無事、下山することが出来た。
3571mというと富士山の高さに近い。
空気が薄く、酸欠で頭が痛くなった。
 
 
帰りの電車の中で、先ほどの商売犬パトラッシュとの撮影である。
本当は、タレントなので無料での撮影はお断りなのだが。
 
 
 
気持ちはハイになって、誰とでも見境無く記念写真を撮る。
ポイントは首に巻き付けている自家製の「藍染め作品」である。
 

 
 
かなり低い所まで列車は降りてきて、車窓からはのどかな麓の風景が見渡せる。
 

 
 
 

 
 

 
 
「具合はどう?だいじょうぶ?」
「うん。なおった。酸素が薄くてね、手が動かなくなったのよ。」
 

 
私が彼女を見かけた時は、例の奇妙な外人達が「キャーキャー」騒いでいた時の中心にいたのだったが。外人以上に激しく飛び跳ねていたと思った。
3571mの高山で、飛び跳ねてはいけない。
 
 

 
 

 
続いて、バスに乗ってザンクトガレンの観光へと向かった。
 

 

 
 

 
世界遺産ザンクトガレン修道院内大聖堂観光 
ザンクトガレン修道院 - Wikipedia
 

 
 
 
 

 

 
 
 
スイスからドイツに行く途中にオーストリアの一部を通過した。つまり、今回の旅は、フランス→スイス→オーストリア→ドイツの4カ国巡りの旅であった。
 
オーストリアの家並みと風景を車窓から撮った。


 
 

 
 

 
 


 
 
そして、バスはホテルに到着した。
しかしながら、私の体調は、最悪の状態となっていた。
パリでもスイスでも、田舎ものの私には、あのカッチカッチのパン食は、なじめない。
それどころか胃酸過多で、胸焼けが悪化してしまっていた。
 
 
 
ホテルビッグボックス

 

 
 
ホテルビックボックスのとなりの総合スーパーに、妻と二人で胃の薬を買いに行った。
薬屋さんには薬剤師さんのような女性が二人いたが、どちらもドイツ語を話した。
私はフランス語ならペラペラだが、ドイツ語は苦手だった。
英語の少し話せる妻が、なんとか「胃酸過多」というのを説明した。
 
私が持っていた「太田胃散」のサンプルを見せたが、日本語で書いてあった成分表を理解して貰うことは出来なかった。
 
なんとか、妻の英語と私のパントマイムで、薬を買うことは出来た。
 
 
 
夕食のメニューである。
 
 

 
 

 
 

[2014/04/10 19:26



フランス パリ市内観光 No2
4/3(木) フランス パリ観光
 
パリ市内はほとんどが歴史を感じさせる重厚な建物ばかり
 
パリはフランスの首都で、Île-de-France(イル=ド=フランス)地域圏の首府。
現在パリ市内の人口は約219万人で、面積は約105km²。
パリは、北緯48度50分、東経2度20分に位置していて、日本の稚内(北緯45度)よりも北。
しかしながら、温かい北大西洋海流と偏西風により、一年を通して比較的温暖。
 

 

 
☆ルーブル美術館 2時間観光
 

 
『エロスの接吻で目覚めるプシュケ』、アントニオ・カノーヴァ。
1787年に制作依頼、1824年に完成
 

 
その裏側からの画像がまたいい。
 

 
 
 
『ミロのヴィーナス』はルイ18世の時代にルーヴル美術館に収蔵された彫刻。
 


 
レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。
レオナルドがフランソワ1世の宮廷に滞在していたときに現在のかたちとなったと言う。
 

 
じっさいに『モナ・リザ』を撮ろうとすると大変である。
 

 
 
 
 

『民衆を導く自由の女神』、ドラクロワ(1830年)

 
ルーブル美術館をくまなく観光するなら3日間は必要だろう。
2時間という時間で見るとするならほんのさわりの部分かも知れない。
 
 

 
 
 
さて、美術鑑賞の後は、フランス料理の「エスカルゴ」をいただく。
私のイメージとしては、子供の頃に食べた「タニシ」である。
さほどうまい物ではない。
こんな物が名物料理とは、フランスも貧しかったに違いない。
 

 
☆凱旋門
 
『凱旋門(がいせんもん)は、軍事的勝利を讃え、その勝利をもたらした将軍や国家元首や軍隊が凱旋式を行う記念のために作られた門。発祥の歴史は古代ローマ時代まで遡る。』
 
☆コンコルド広場
 
『1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初ルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていた。その後、フランス革命の勃発により、騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。フランス革命中には、ルイ16世やマリー・アントワネットへの処刑が行われた刑場でもある。』
 

 
 

 
 
 
☆ベルサイユ宮殿 1時間30分観光
 
『ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール、エチケット、マナーが生まれた。』
 
 
 

 
 

 



☆エッフェル塔
 
『フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。ここで、ギュスターヴ・エッフェルほか2者の案が採用になった。設計者がステファン・ソーヴェストル、モーリス・ケクランとされたり、エッフェルは工事を請け負ったにすぎないとされたりするが、当時ソーヴェストルとケクランは、2者ともエッフェル社の社員で、エッフェルとともにコンペに参加していた。最終的にはエッフェルが著作権者となり、この塔の名前の由来になった。』
 

とにかく忙しい。
一日でパリにある有名な建造物を全部見ようとするのだから、無理がある。
 
「さあ、ここがパリのエッフェル塔ですよ。急いで下さい。次の日程が押してますから、ぱっぱっぱっと記念撮影して、とっとっとっとバスにお帰りください。」という感じだろうか。
 
 

 
 
なにやらデモがあった。
楽器を奏でながらおよそデモとは思えないデモであった。
 

 
 
 
☆セーヌ河クルーズ 1時間
 
 

 
 

 
 

 

 
 

 
 

 
 
パリのホテル泊
 
さて、ディナーはどんなものだろう。
 

 

 
メインディッシュ ジャガイモとローストポーク

以上。
 
旅アンケートに答えた。
「食事 評価 1」
[2014/04/09 08:42

フランス モン・サン=ミシェル No1
4月1日 火曜日 成田出発 13:55 
 
全日空 NH205便
 

 
座席はとても狭いが、長旅には映画やビデオを視聴することが出来る。
 

 
機内食は、洋食と日本食があり、今回は日本食を食べた。
個人的な感想は、今回の旅行での食事で一番美味しかったのが機内食という感じであった。涙
 

 
19:25   パリ 4/1 シャルル・ド・ゴール空港着 
飛行時間 12時間30分

 

 
 
カンパニール パリ エスト ポルト ド バニョレ ホテル泊
 

 
このホテルに3泊することになるが、お世辞にも良いホテルだったとは言えない。
 
「※バスタブ無しのシャワーのみのお部屋となります。」と、旅物語のしおりには書いてあったが、部屋ごとに違うため、期待されないように、あらかじめバスタブ無しと書いておくそうである。
 
旅慣れた人たちのツアーのようであり、「旅物語」よりは「ルックJTB」のほうがランクは上だと言っていた。
 
と言うわけで、この後、年寄りには「終活」のような過酷な行軍が続くこととなる。
 
 
 
2日目の朝は、小雨模様であった。
女性陣に大人気の「モン・サン=ミシェル」観光である。
しかしながら、パリ市内からバスで359kmの移動である。
 
車窓からのパリ市内の道路状況である。
朝の通勤ラッシュ。
これから片道5時間ぐらいのバスの旅が始まった。
 

 
パリと言えば、セーヌ川が流れている。
3日目には、セーヌ川のクルーズが計画されている。
 
セーヌ川は、くねくねと曲がりながらゆったりとした流れである。
 

 
 
愛想の良いドライバーと記念の撮影だ。
旅行用の笑顔も身についてきた。
 
 

 
 
 
パリ市内を通過して高速道路に乗ると、このような風景が、延々と続くことになる。
見渡す限り、小麦畑かこのような菜の花畑である。
 
フランスは農業国であったのか、パリ近辺には山がないようだ。
 
 

 
昼頃に、ようやくモン・サン=ミシェルに到着した。
地平線の真ん中に見える三角の形のものがそれである。
海の中に浮かぶ小さな小さな島のお城である。
 

 
 
モンサンミッシェルへ行く道は、諸事情で乗り入れが出来ない。
シャトルバスに乗って島に上陸しなければならない。
そのため、バスが駐車できて、シャトルバスに便利なレストランでの昼食となった。
 
この地区には、名物の「プラールおばさんのオムレツ」がある。
 
「名物に上手いのも無し」という日本のことわざがあるが、ここの名物のオムレツは、ほとんど詐欺のような感じだった。
 
皿にのった薄卵焼きを、フォークでひっくり返したら、泡だけで、味もなく、単なる卵味だった。
 
 
 

 
 
 
 
さてメインディッシュは、シャケのムニエルとカッチカッチのパン一個。以上。
 

 

 
 
わざわざ、ここまで来て、牛の置物と記念撮影することはないと思うが。
撮りたいというのだから、なにか思いがあるのだろう。
 
 

 
さて、ようやく目的のお城をバックに記念撮影。
この道路のために、水流の流れが悪くなり、道路の回りにどんどん砂が堆積して、島ではなく半島のようになってしまったようで、道路を撤去する工事を始めたようである。
 
 
 

 
空から見た時に英仏海峡に浮かぶ要塞のような修道院の姿を取り戻す工事でもあるようだ。
 
 

モン・サン=ミシェル - Wikipedia
 
モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)は、フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島であり、同名の修道院がある。モン・サン=ミシェルは「聖ミカエルの山」の意で、旧約聖書にその名が記される大天使・ミカエルのフランス語読みに由来する。行政上はル・モン=サン=ミシェルというコミューンを形成する。
カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モン・サン=ミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。」
 
 
モン・サン=ミシェルの位置
 

 
今回の添乗員さんは、総勢35名という人数を一人で面倒見ることになっている。年の頃は40代前半か、良く走り回ってサービスをしていた。
辛口の彼のユーモアが、和やかな雰囲気を常に作り出していた。
 
 

 
 

 
 
 
 

 
 

 
 

 
 

 
 

  
頂上の広場で添乗員さんとフランス人のガイドさんの説明を聞く。

 

 
 
 
修道院下の狭い路地は店が立ち並び観光客で溢れている。
 

 
 
2時間の観光が終わり、
同じ道をパリ市内まで戻ってくる。
 
 
 
 
[2014/04/08 21:19]

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