ドイツ ケンプテン No5-1
4/6(日)ドイツ観光   午前中の見学
 
ケンプテン
 

 
 

 
ホーエンシュバンガウ
 
『ホーエンシュヴァンガウ城は、ドイツ、ホーエンシュヴァンガウにある、19世紀に建築された城である。マクシミリアン2世によって改築された。
 
1832年、マクシミリアン2世は12世紀に建設されたが廃墟になっていたシュヴァンシュタイン城を購入した。そして4年ほどの歳月を費やし、古城を改築した。
 
これがホーエンシュヴァンガウ城である。ルートヴィヒ2世は幼年時代をホーエンシュヴァンガウ城で過ごした。』
 

 
 
 
 ノイシュバンシュタイン城から見下ろした霧の中のホーエンシュヴァンガウ城
 

 
マリエン橋
 
 『1866年にルートヴィヒ2世の命により、王室建設長官ゲルバーの指揮のもとでマン社の前身企業によって、現在のような鉄橋が架けられた。
 
この橋の建設に用いられた技術―滝上90メートルの高さに、両岸の岩場へ吊桁を直接渡すというもの―は、当時の橋梁建設としては画期的なものであった。
 
橋は1984年に修復され、吊桁部分が取り替えられたが、橋面は建設当時のままである。 』
 
 

 
 
 

 
 

 
 

 
ノイシュバンシュタイン城見学
 
 
 

 
 「ノイシュヴァンシュタイン」 (Neu Schwann Stein)は、「ニュー スワン ストーン」( News Swan Stone)
つまり、「新しい白鳥の岩」という意味になる。
まさに、険しい岩山のてっぺんに、美しい白鳥のようなイメージの城である。
 

 
『おとぎ話に出てくるような美しさのノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーランドやディズニーランド・パリ、2005年に開園した香港ディズニーランドにある眠れる森の美女の城のモデルの一つとしても知られている。』
 
 
≪美しくも悲しい歴史を持つ城≫
 
『このノイシュヴァンシュタイン城は、オーストリア国境近くにバイエルン王ルートヴィヒ2世により建設された城。
1869年に着工し、建築に17年かけたが、1886年2世失脚と同時に未完成のままとなっている。
2世は1845年8月25日にミュンヘンで生まれ、18才でバイエルン国王の座につき、政治経験は少なく、実際の政治からは離れていた。 

山々を歩き、孤独な生活を送った2世は、ワーグナーを愛し、彼の創作する楽劇の世界に酔いしれ、彼に 膨大な額の援助をした。
そして 自分の美学を追究し、それがノイシュヴァンシュタイン城建築へと向かったと言われている。
どの部屋も豪華で、またワーグナーのオペラの場面が壁画として描かれており見応え十分。
建設費用は現在の金額に換算して200億円以上になるそうだ。
 
建築資金と借金が増大してきたため、政府は、ルートヴィッヒ2世を精神病と鑑定して国王の座から実務上追放する。 
1886年、ノイシュヴァンシュタイン城から連れだし、ミュンヘンの近郊のベルク宮へ移す。1886年6月13日、2世は医師と散歩に出かけたまま戻らず、医師とともにシュターンベルク湖で水死体となって発見された。
 
1869年、24歳の時に着工し、
17年の歳月をかけたノイシュヴァンシュタイン城も構想の 三分の二が未完成で、ルートヴィッヒ2世が ここに住んだ期間は僅か102日間でだった。』
 
 

 
 

 
 
 

 
 フランス人のこども達がなにやら不思議な日本人女性に興味を持って集まってきた。彼女はフランス語もドイツ語も英語も話さない。
しかしながら、一発でコミニュケーションをとる天才的な魅力を持つようだ。
あっという間に人気者になり、モデルになってしまう。
 

 
 
愛想の良いドイツ人夫婦の赤ん坊。 真っ白な肌で、食べちゃいたくなるぐらい可愛らしい。
 

もちろん、ママのほうだけど。 

 
 
 

 
なんと、雪割草が自生していた。
 

 
 
 
岩にへばりついて咲いていた野の花。名前はわからない。
 

 
こちらの花は、スミレだと思う。

 
 
これは、私の家の花壇にもあるジュリアンだと思うが、こちらは山の斜面に自生している。
 

 
 
この花も、葉っぱを日本の山でも見たことがある。しかし、名前はわからない。
 

 
 
友だちが増えた。
茨城県の夫婦と東京に住む中国残留邦人夫婦である。

 

 
以下 No5-2に続く
 
 
[2014/04/11 19:30


ドイツ ロマンチック街道 No5-2
4/6(日)ドイツ観光   午後の観光
 
 
 
 

 
 
 
 近くのレストランでの昼食である。
 

 

 
 
 
 
 
まず、野菜サラダ。
お水は、めずらしく無料。
  

 
 
 
続いて、メインディッシュ。
ジャガイモと白身魚。
 

 
 
 
最後にデザート。
チョコレートパンケーキ。
 以上。
ドイツのダイエットメニューでした。

 
 
 
 
世界資産ヴィースの巡礼教会
 

 

 
 
 
『1738年、ある農家の夫人がシュタインガーデン修道院の修道士が彫った「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受けたところ、6月14日このキリストの像が涙を流したという。
 
教会ではこれを奇跡とは認定しなかったが、この噂は「ヴィースの涙の奇跡」として広まり、巡礼者が農家に集まるようになった。
 
1740年には牧草地の小さな礼拝堂に移したが、巡礼者は増える一方であった。
 
そこでシュタインガーデン修道院が先頭に立ち、一般からの浄財を募るなどして建設資金を捻出し、1746年から建造されたのがこの教会である』
 
 
 
 
内装画

 
天井画

 
 

 
 
 
 
ロマンチック街道

 
 
 
 
ディンケルスビュール
 

 
 
 
建物の壁画の意味とは?
 

 
『30年戦争中の1632年、ついにスウェーデン軍がディンケルスビュールに侵攻してきた。屈強なスウェーデン軍を前にもはやなす術はなく、街を明け渡す(Stadtübergabe)しかなかった大人たちの前に現れたのが、塔の見張りの娘ローレ。
 
街の子どもたち全員を引き連れて、スウェーデン軍の隊長に「街を破壊しないで!」と懇願した。
 
その結果、現在まで街が残っていることからもわかるように、隊長は子どもたちの願いを聞き入れたのだ。
 
破壊から街を救った子どもたちの活躍を讃え、この小さな勝利を記念して毎年7月には10日間にわたって盛大な祭り「Kinderzeche」が開催される。』
 
 
 
 
手作り飴屋さんを発見。
 

 
小さなお店は、あっという間に、女性客でいっぱいになる。
 

 
 
 
 
ヨーロッパ人は、太陽の光が大好き。
とくに春先は、みんなお外でお食事をする。
 

 
おや?いつのまにか、ちゃっかりと紛れ込んでいる夫婦がいた。
 

 
写真大好きな女性もいた。
 

 
 
 
ローテンブルク
ホテル ラッペンローテンブルクオブデアタウバー
 

 
 
 
 
 
ホテルの部屋のベランダに出てみると、なんと外では、つながっていた。
しかも、半地下状態の一階の部屋であった。
ベランダの外は、普通の道路であった。
 
 

 
「はーい!みんな ともだち! いいとも!!」
 

 
「こちらもつながってますね。」

 
 
 
 
 
こちらの夫婦、旦那様は、なんと「手品師」だった。
ボランティアで、保育園や老人ホームで、手品を披露しているそうだ。
 
「鳩をだして!」と頼んだが、「今はちょっと、無理。」と断られた。
 

 
 
 
 
赤いシャツの旦那様は、集合写真では、いつも一人で撮る。あやしい。
額にめがねをかける旦那様には、お薬を頂いた。胃の薬である。
今回は、奥さんを日本に残し、一人旅である。あやしい。
 
 

 
 
久しぶりにビールを頼んだ。
ドイツビールにしては、さっぱりしている。
ライトとか、言ってたな。
 

 
 
 
これが有名なドイツのソーセージ。
それに、ジャガイモが2個。
以上がメインディッシュ。
 
ふざけている。
 

 
 
 
 
デザートだって。
普通の菓子だ。
 
 

 
 
 
これだけの食事で、朝まで持つのだろうか。
私は、胃酸過多で、食欲がなかったので、ちょうど良かったが。
 
 
回りを見渡しても、みなさん不満げな表情であった。
顔が心なしか怒っているようだ。
 

 
 
 
 
 
 
 
と言うわけで、何かおいしいものはないかと、夜の探索に出かけた。ホテルから100mの所に明日の見学地「ローテンブルク」がある。
 
ドイツの夕方は8時頃まで明るい。
 

 
 

[2014/04/12 13:08]

ドイツ ローテンブルク  No6-1
4/7(月)ドイツ観光  最終日
ローテンブルクのホテル
 

 
 
今回の旅ですっかり仲良しになったお友達
8日間のヨーロッパ観光もいよいよ最終日となった。
 

 
 
 
女性二人旅の彼女もバスの運転手が気に入ったらしい。
 

 
 
 
今回のツアー「旅物語」の参加メンバー35名のペアに印をつけてみた。
印は頭の上あたりの☆マークが同じ人がペアである。
間違っているかも知れない。
 

 
 
みなさんが空を眺めているのは、真っ青な空に浮かぶ綺麗な飛行機雲のようだ。
出発の時間を待っている。
 

 
 
最初に観光するのは、昨夕にホテルから歩いて100mの所にあるローテンブルクである。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバー - Wikipedia
 
 
ローテンブルクの城壁に登って、城壁から旧市街を見学する。
 
『ドイツ南部、バイエルン州のローテンブルクの旧市街を囲む城壁・市壁。
 
1380年に建設されたもので、総延長は約2.5kmである。城壁の上には屋根のついた回廊が設けられていて、町を一周することができる。』

 
 
回廊に登る。

 
 
 
こんな所に、日本の提灯が?
 

 
マルクト広場
『市庁舎の前には、マルクト広場と呼ばれる広場があります。マルクト広場とはドイツのどの都市にもあるもので、マルクトはドイツ語で「市場」のことです。』
 
市庁舎
 
現在は工事中であった。
 

 
実際の市庁舎

 
 
聖ヤコブ教会
 

 
 
リーメンシュナイダーの「聖血祭壇」
 

 

 
 
 
工事中の市庁舎の説明を聞く
 
[2014/04/12 19:33


ドイツ  ハイデルベルク No6-2
4/7(月)ドイツ観光  最終日の午後
 
ツアー最後の食事 参加者総勢35名である。
 

 
 
 

 
 

 
 

 
ハイデルベルク
 
『ハイデルベルクは、その教育機関で広く知られている。なかでも名声が高いのは、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクでである。この大学は1386年に創設された、現在のドイツ連邦共和国の中で最も古い大学である。』
 

 
文化と見所
 
『ハイデルベルクは、第二次世界大戦の空爆によって破壊されることなく、中世そのままのたたずまいを示すバロック様式の旧市街が遺されている数少ない大都市である。』
 
ハイデルベルク城

 
 
 

 
 
 
 
 
『みなさん、ドイツ語の「P」「b」の発音は、難しいのですよ。[p]と[b]. 唇を閉じたまま、息を勢いよく出すと出る音です。空気だけ「プッ」出すと、ドイツ 語の[p]、「ぶ」というつもりで息を吐くと、ドイツ語の[b]になります。
ここで大事なのは、 はっきりと「ぷ、ぷ」と言わないことです。
こちらは、おならのぷっですよ。あらぁ、わたくし、ちょっと、はしたなかったかしら。
ふふふふふ。』と、楽しいガイドさんであった。
 

 
ハイデルベルク城の大樽
 

 
フリードリヒ館
 

 
 
 
オットハインリヒ館
 

 
アルテ・ブリュッケ公式な名称は「カール=テオドール橋」である。
この橋は、ドイツで最も古い橋の一つである
 

 
 
 

アルテ・ブリュッケの門塔
 

 
 

 
 

 
アルテ・ブリュッケのサルの像
 

 
ツアーの仲間たち
孫と一緒だったり、夫婦であったり、友だち同士であったりと様々である。
4月1日から4月8日の旅行の参加条件をクリアーできた人たちである。
 
現役のサラリーマンなら、ひんしゅくものであるが。
 

 
 

 
 

 
 

 
 


 
 

 
 
 
 
海外旅行を楽しむ人は、どのような思いがあるのだろうか?
 
 
私たちの場合は、妻の子供の頃にさかのぼる。
 
「兼高かおる世界の旅」にあこがれて、将来は彼女のように世界を旅してみたいと小さい時からの、並々ならぬ思いがあったわけである。
 
そのことが、今ようやく実現しているのである。
 
 
『「兼高かおる世界の旅」は、世界各地の、いまだ日本人に馴染みのない国々をめぐって、その風俗、文化、歴史や、地理、物産などを紹介する初の本格的海外取材番組として1959年にスタート。
 

日曜の午前中は、この番組を見なければ1日がはじまらないとまで言われるほど視聴者に浸透していた。この番組で、兼高は、ナレーター、ディレクター兼プロデューサーを全て1人でこなした。
 
 

彼女自身の持つキャラクター、進行役・芥川隆行とのやりとりも絶妙で、個人名を冠した番組としては最も長い、31年もの長寿番組となった。訪れた国の数は150カ国あまり、地球を180周した計算になる。サルバドール・ダリやケネディ大統領などの著名人から極北の村人や砂漠の民とまで語り合い、気球でのアルプス越えやジャングル踏破などの冒険にも挑戦。
 
 

民間人の海外渡航が自由にできなかった時代、「世界をお茶の間に運ぶのが私の仕事」と言う言葉通り、女性の目で見、女性の手で世界に触れてきた貴重な旅の数々が、この番組にたっぷりとつまっている。』
 
 
フランクフルト空港
 
4月7日夕方に飛行機に乗り、羽田に4月8日の午後3時頃に帰国する。
飛行時間は約11時間である。
 

 
 
 
[2014/04/13 17:23]