昭和 42 年          1967 年 佐藤榮作
 
グループサウンズが爆発的人気に。   
中学や高校では、バンドグループを作って、文化祭等で発表する者も現れた。

 
 
国内の自動車保有台数が1000万代を超える
世の中は、頑張って働けば、夢が叶うかも知れないと誰もが考える時代となって行った。

 
  
私が中学校3年生の時である。
 友人は、舟木ー夫のファンだったので、私は西郷輝彦にした。
 
 
昭和 43 年          1968 年 佐藤榮作
 
3億円強奪事件   
 

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東大闘争など学園紛争が激化
日本のGNPが自由経済国で2位に。
日本経済は、右肩上がりでどんどんバブル時代に突き進んでいた。しかしその事は、誰も分かっていなかった。
『巨人の星』がテレビ放送開始
 
中学3年生の時に勉強のできる転校生が来て、友達になり、そのおかげで高校は進学校に進んだ。

時は、学歴社会へと少しずつ変化していくときであった。
 
高校に入学するとすぐに、将来の進路についてのアンケート調査が実施された。
アンケートを書く前に、進路担当教員の先生から放送での説明が流された。
 
「我○○高等学校は、県下でも屈指の進学校であります。先輩は、ほとんど100%が大学進学を希望しております。アンケートには、卒業後の進路について、現在の希望とするところをできるだけ具体的に記入するようにしてください。」と。
 
そして、アンケート用紙には、卒業後の進路希望として①大学進学 ②専門学校進学 ③就職とあり、①の大学進学については、国立大学進学、有名私立大学、さらに、コースとして理科系か文化系かと記入せよ。と。クラスは、能力別にクラスわけされていた。優秀クラスは、学年10クラスで2クラスあった。

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私は、大学に進学すると言うことは、全く考えていなかった。
母校の中学校では、1クラス40名中15名ぐらいが中卒で就職していた。3クラス120名ぐらいの田舎の学校の出身だった。
 
しかし、高校に入学してまもなく、そのアンケートのごとく洗脳教育が始まった。
1クラス50名で10クラスあった。1学年500名のマンモス校である。
しかも女子は全体で80名ぐらいしかいなかった。
 
私は、男子ばかりの50名のむさ苦しいクラスに配属された。
入学したときは、真ん中よりやや上の方で合格していたと思っていたが、運動部に入って、夜中まで練習していたりしたので、成績はだんだん下がっていった。
それに、年間10回の定期テストがあり、常に成績優秀者が掲示板に掲載された。
 
もちろん、毎回全体の順位とクラス順位の記入された成績カードを渡された。
夏のことだったか3回目の定期テストの成績順が学年で200番ぐらいに落ちたことと部活動でレベルの違いに嫌気がさしていたこともあって、部活を退部してしまった。
 
その後、3年生までに入部したり退部したりを3,4回繰り返した。
 
受験戦争の過熱化
 
「4当5落」という言葉が生まれた。
 
4時間の睡眠なら合格、5時間寝てしまえば落選という意味である。
 
日東駒専(にっとうこません)と言う言葉も使われた。 
 
「旧制大学からの私学の中で実績の割には知名度が高くなかったこれら4つの大学が、1960年代から学部学科の増設や定員の拡大などで急速に規模を拡大させ始めて以来注を浴び、さらにたまたま偏差値としては近い位置にあったため某有力有力大学進学案内誌が提唱したといわれている。」
 
 
昭和 44 年          1969 年 佐藤榮作
 
佐藤首相訪米、共同声明で沖縄返還  
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アポロ11号が月面に着陸
エクスブロラーエラー
 (画像引用元)
 
東名高速道路が全面開通    交通事故死亡者数が100万人に迫る
 
 
昭和 45 年          1970 年 佐藤榮作
核兵器拡散防止条約調印   
日本初の人工衛星打上げ
よど号ハイジャック事件   
 

私が高校3年生の時である。
村一番の家の先輩女性に「車は家と同じくらい高いので、家は将来持てそうだけど車は無理かもしれないです。」と言ったら笑われてしまったことがあった。
時代は、どんどん変わって行った。そしてみんなが豊かになって行くように感じていた。
 
修学旅行は、京都・奈良と大阪万博であった。
アメリカ館は3時間待ちの長蛇の列であったため、見学を断念した。

そして、次の年に大学受験があった。
地方の国立大学の教育学部に、潜り込むことができた。


 NO.5に続く

2練馬大長尻大根 9-1