昭和 46 年 1971 年 佐藤榮作
マクドナルドが日本に初めて出店

三里塚 成田闘争 行政代執行 東峰十字路事件
 【変わる世論】

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「当時は共産主義活動が活発であり学生運動に共感する者も多く、マスコミは反対派に同情的だった。
学生だけでなく反対派の子供までも「行動隊」と称して国家権力と戦うといった構図は、世論的にもわかりやすく、応援者も多かったと思われる。

しかし、この3人の警察官殺害を機にマスコミの態度は一変。
大っぴらに犯人捜しが行われ、世論も学生運動に冷ややかな眼差しを向けるようになった。

こんなエピソードがある。
都内の駅ターミナル内で、活動学生らが反対運動支援のカンパを呼びかけていた。
「学生側も危篤者二人。当局は巧みに報道管制をしいている」とのビラを撒くも「罪のない警官をなぜ殺した」と詰られ、殺人も許されると開き直る学生らとの諍いが、あちこちで勃発したという。

このような中、全共闘運動は急速に支持・勢力を失ってゆく。』

『昭和46年9月16日、成田空港建設を巡る反対派と警察の攻防でついに犠牲者が出た。
 政府の土地収用法に基づき第二次強制代執行を阻止するため建設反対の地元農民や全共闘、中核派など反対派約5000人と警察5300人が激突した。
 
午前6時45分、機動隊は完全武装し強制代執行を開始した。反対派は火炎瓶、投石などで応酬。これに対して機動隊は催涙弾を打ち込み現場は戦場と化した。』
  

私が、大学に入学した年である。

当時の大学は、たくさんの学生運動組織があった。
私の大学は、田舎の国立大学であったため
革マル派と中核派と民主青年同盟の三つの組織だけだった。
学生運動は、かなり下火にはなりつつあったが。

 
私の友達が、既存の組織ではなく、新しい組織を作ろうと提案したので、友達を何人か集めて勉強会を発足した。
「綱常会」という組織である。
名前の由来は、「三綱五常にして人の道なり」という儒教の言葉から取った。

三綱五常とは?
『儒教で、人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。▽「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五常」は仁・義・礼・智ち信の五つの道義。』

要するに、世の学生運動の組織が左翼ばかりでつまらないので、右翼の組織を作ろうとの事だった。

綱領を作る段階で、すぐに挫折して、立ち上がる前に組織は解体となった。

綱領の一部に「共産主義を排除する」とあったので、共産主義のどこが悪いのかを各自勉強して、次回に持ち寄って研究会を行おうとなった。
私は確か「実践論・矛盾論」という文庫本を読んだ。
とてもわかりやすくすばらしい考えだと感動したことを覚えている。
友達もみんな「共産主義はすばらしいのではないか」となってしまった。
共産主義を批判するような本や情報が少なかった。政治家や大人には、共産主義は相手にされていなかったためだろう。

あとでわかったことは私の友達は、勝共連合に所属していた。
まったく笑い話のようなことを、真剣に考えていた時代だった。
 
このころの都市部のサラリーマンの平均月収は、127,235円であった。
 
学生のアルバイトは家庭教師が一般的で、私も2軒ぐらいやっていた。
週に2回、1日2時間で月1万円と結構な額だった。
当時4畳半の間借りで5千円、食費は1日1000円として3万円、最低でも3万5千円あれば、生活ができた。
授業料は当時の国立大学は1ヶ月1000円で年間では1万2000円だった。
特別奨学金は月に1万円が支給され、後に公務員になれば、返済を免除されるというありがたい制度だった。

残念ながら私は申請をしなかったためにその恩恵には預からなかった。
「奨学金をもらい、家庭教師をやって、4畳半の間借りで自炊生活をする。」というのは一般的な田舎の学生の生活であった。
奨学金と家庭教師のバイトで3万円、家からの仕送り2万円の計5万円で普通に生活ができた。

この頃、現在のカミサンと出会って、楽しいデートを重ねたりして、バラ色の学生生活だった。金が無くなると、彼女のアパートに行って野菜たっぷりのインスタントラーメンをご馳走になった。
 
1972年に、加藤登紀子さんが学生運動活動家の藤本敏夫さんと獄中結婚した。
 
昭和 47 年 1972 年 田中角榮
 
 

沖縄返還実現 札幌冬季オリンピック開催




日中共同声明(日中国交正常化) 高松塚古墳壁画発見
 
第1次田中角栄内閣成立.列島改造論により土地ブーム起こり、地価高騰 



 このころから日本全国の土地の値段が、どんどん値上がりして行った。
そして、バブル崩壊までまっしぐらに日本経済は突き進んで行くこととなった。
  
 
浅間山荘事件 

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元日本兵・横井庄一、グアムから帰還する。

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昭和 48 年 1973 年 田中角榮
円の変動相場制移行 
金大中事件
オイルショック【oil shock】
 『1973年の第四次中東戦争を機にアラブ産油国が原油の減産と大幅な値上げを行い,石油輸入国に失業・インフレ・貿易収支の悪化という深刻な打撃を与えた事件(第一次)。また,1979年のイラン革命に伴って産油量が減り,原油価格が急騰した事件(第二次)。石油ショック』
 
 
新御三家、花の中三トリオが活躍

 
 
 
昭和 49 年 1974 年 三木武夫

経済成長率実質マイナス0.5%、
戦後初のマイナス成長 
卸売物価指数31.3%上昇 

宝塚歌劇『ベルサイユのばら』初演、少女達の間で大ブーム

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消費者物価指数4.5%いわゆる狂乱物価 
 長嶋茂雄現役を引退

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 高校進学率が90%を超える
  



収用委員会への嫌がらせ

『過激派農民や新左翼の空港反対派は、千葉県の土地収用委員会の委員に嫌がらせや脅迫を長らく続け、嫌がらせはエスカレートし、1988年千葉県土地収用委員長襲撃事件が発生。また収用委の家族への嫌がらせや子供の誘拐事件も発生。これをきっかけに、千葉県収用委員会の委員はみな辞めてしまいました。土地収用委員会は解散。』

これはどういう意味を持つのかというと、千葉県では強制的な立ち退きができなくなってしまったということである。土地収用委員が強制的な立ち退きを委員会で決めて初めて、行政代執行ができるのである。

私の知り合いの金持ち爺さんが、この手の法律に詳しくて、よく聞かされたものだった。

ある時、市の職員が、計画道路に掛かっている爺さんの土地を、勝手に測量していて、爺さんの逆鱗に触れ「お前ら下っ端では話にならない。部長を呼んで来い。』といって千葉県は、行政代執行ができないことを、部長に正した。

後に、市長に圧力をかけて、部長を挿げ替えてしまった。悪い爺さんだった。


 NO.6に続く

2練馬大長尻大根 9-1