以下の資料と太鼓の音源は啓誌熟さんからの転載です。

私の父親は32年前の1987年亡くなった。72歳であった。
記事は、その3年前のものである。 35年前の記事である。

私も父の亡くなった歳に近づいている。
顔つきは似ているが、髪の毛は父のほうが多いようである

太鼓の輪



『野島 虎雄氏(69歳)

『正月の風物詩といえば、コマ回しやたこ揚げ、羽根つきといろいろあるが、しし舞いなどもいまでは見かけなくなったが縁起物として親しまれている。しし舞いにつきものなのが、笛に太鼓。しし舞いの太鼓ではないが高萩市上手綱に住む野島虎雄さん(六九)は、10年以上も各地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。

野島さんは574月に、市内松岡にある旧水戸藩家老中山備前守の氏神さまである丹生神社(たんしょう)に伝わっていたササラが復活された際、ササラ舞いの振り付け、太鼓の打法の指導にあたった人だ。

太鼓と野島さんの縁は、祖父の繁次さん※が、山鹿流太鼓の師範だったことから。山鹿流といえば、テレビ、舞台などで必ず暮れになると放映・上演される「忠臣蔵」のクライマックス、吉良邸討ち入りの時、大石内蔵助が打つ太鼓、あれが山鹿流の陣太鼓。

 

「祖父が太鼓を教えていた関係で“門前の小僧、習わぬ経”の例えではありませんが、見よう見まねで覚えたんです。とにかく当時はお弟子さんも多く、1日中太鼓の音が響いていたんですよ。いやでも覚えてしまいます」

戦後は一時、祖母さんのいる柴田サーカスにいたこともあるというだけに、手品・曲芸はお手のもの。その器用さを見込まれてか、10数年来、地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。下級の子供たちには神輿囃子・矢車太鼓・昇殿神楽※の3種を指導した。

子供会の4年生以上になると、この3種の太鼓打法をマスターすることになる。インスタントではなかなか覚えることができない、実演伝承なので、難しい面もたくさんある。ただ、太鼓の良さは、野球などではレギュラーにならなければ試合に出場できないが、太鼓はみんながレギュラー。だれもが一緒になって打つことが出来る。

58年の11月には、親と子、祖父母を加えた三世代の集いで、日ごろ鍛練した太鼓を披露、大好評だった。これだけではなく、7年前から太鼓を通じて老人クラブ、子供会、そして親たちというコミュニティーの輪が広がっている。その一番の功労者は野島さん。

「高萩だけでなく、もっと全国の人たちにも太鼓打法を教えてあげたい」

と野島さんの夢は大きい。』




上手綱みこしはやし



134号 茨 城 朝 日 昭和59年(1984)1月1日・4日(2)

■上手綱に伝わる神輿囃子の由来

『文久元年419日、藩主中山備前守より朝香神社に神輿が奉納された。それを記念すべく祭式が行われ、催されたのが、神輿御神楽太鼓と称する御囃子である。

その御囃子とは、慶長8年徳川家康公が将軍の位を賜った時、天海僧上が催したという御囃子があるが、その連係だという。

その御囃子を、藩の太鼓師二代目にあたる白土円覚なる人物が、神前にて演じたのが始まりで、以来、祝いとして若者たちが神輿を担ぎ部落を練り歩くことが、明治7年のころまで続いた。

そのころ、太鼓師三代目にあたる小和田の白土市郎次氏が、数多くの弟子にその御囃子を教育され、他町村にまで広めたが、明治14年衰退の一途をたどり、その後、減衰していったという。

昭和527月、高萩市一円に御神輿祭が開催されることになり、大正13年ごろに太鼓師四代目より伝承されていた物を、野島虎雄氏が教授。下組 北組子供会会員に指導していった。

以後、祭礼に執行し、毎年その祭日に行うようになったという。』




山鹿流太鼓とは?

; 矢車太鼓 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/201908301846128e2.mp3


; 昇殿神楽 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/20190830184727b3f.mp3



; 神輿囃子 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/20190830184839e9e.mp3


; 篠笛と締太鼓 音声
https://blog-imgs-130.fc2.com/k/a/z/kazuraky/20190830184931343.mp3




≪以下は、過去記事より転載≫

『啓誌熟』より転載
もっと太鼓の“輪”を広げよう
                        2015/01/1512:00 1 0

■太鼓の打ち方指導を通して地域のコミュニティーづくりに貢献する

野島 虎雄氏
(69歳)

『正月の風物詩といえば、コマ回しやたこ揚げ、羽根つきといろいろあるが、しし舞いなどもいまでは見かけなくなったが縁起物として親しまれている。しし舞いにつきものなのが、笛に太鼓。しし舞いの太鼓ではないが高萩市上手綱に住む野島虎雄さん(六九)は、10年以上も各地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。


たつご子供会の「市民ばやし」演奏



野島さんは57年4月に、市内松岡にある旧水戸藩家老中山備前守の氏神さまである丹生神社(たんしょう)に伝わっていたササラが復活された際、ササラ舞いの振り付け、太鼓の打法の指導にあたった人だ。


丹生神社(三神社)の棒ささら




太鼓と野島さんの縁は、祖父の繁次さん※が、山鹿流太鼓の師範だったことから。山鹿流といえば、テレビ、舞台などで必ず暮れになると放映・上演される「忠臣蔵」のクライマックス、吉良邸討ち入りの時、大石内蔵助が打つ太鼓、あれが山鹿流の陣太鼓。

山鹿流の陣太鼓



「祖父が太鼓を教えていた関係で“門前の小僧、習わぬ経”の例えではありませんが、見よう見まねで覚えたんです。とにかく 当時はお弟子さんも多く、1日中太鼓の音が響いていたんですよ。いやでも覚えてしまいます」

戦後は一時、祖母さんのいる柴田サーカスにいたこともあるというだけに、手品・曲芸はお手のもの。その器用さを見込まれてか、10数年来、地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。下級の子供たちには神輿囃子・矢車太鼓・昇殿神楽※の3種を指導した。





子供会の4年生以上になると、この3種の太鼓打法をマスターすることになる。インスタントではなかなか覚えることができない、実演伝承なので、難しい面もたくさんある。ただ、太鼓の良さは、野球などではレギュラーにならなければ試合に出場できないが、太鼓はみんながレギュラー。だれもが一緒になって打つことが出来る。

58年の11月には、親と子、祖父母を加えた三世代の集いで、日ごろ鍛練した太鼓を披露、大好評だった。これだけではなく、7年前から太鼓を通じて老人クラブ、子供会、そして親たちというコミュニティーの輪が広がっている。その一番の功労者は野島さん。

「高萩だけでなく、もっと全国の人たちにも太鼓打法を教えてあげたい」
と野島さんの夢は大きい。
※改訂
第134号 茨 城 朝 日 昭和59年(1984)1月1日・4日(2)


■上手綱に伝わる 神輿囃子の由来

文久元年4月19日、藩主中山備前守より朝香神社に神輿が奉納された。それを記念すべく祭式が行われ、催されたのが、神輿御神楽太鼓と称する御囃子である。


茨城県高萩市上手綱 朝香神社




その御囃子とは、慶長8年徳川家康公が将軍の位を賜った時、天海僧上が催したという御囃子があるが、その連係だという。

その御囃子を、藩の太鼓師二代目にあたる白土円覚なる人物が、神前にて演じたのが始まりで、以来、祝いとして若者たちが神輿を担ぎ部落を練り歩くことが、明治7年のころまで続いた。

そのころ、太鼓師三代目にあたる小和田の白土市郎次氏が、数多くの弟子にその御囃子を教育され、他町村にまで広めたが、明治14年衰退の一途をたどり、その後、減衰していったという。

昭和52年7月、高萩市一円に御神輿祭が開催されることになり、大正13年ごろに太鼓師四代目より伝承されていた物を、野島虎雄氏が教授。下組 北組子供会会員に指導していった。

以後、祭礼に執行し、毎年その祭日に行うようになったという。』


父は72才の時に亡くなった。
私が32オの時であつた。
この記事は父が亡くなる3年前のものだ。

私は父が太鼓をたたく姿を見たことがなかった。

私が生まれて2ヶ月目の時に、母は脳溢血で倒れた。

その時まで父親は定職についていなかった。
今風に言えば、芸人であった。

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