のじさんの徒然草

200坪の畑に美味しい野菜を育てています。 都会の近くの山に囲まれた菜園の横に秘密基地を建て、田舎暮らしを楽しむ、そんなライフスタイルの情報を発信しています。

Category: のじさんの昭和史

昭和 34       1959           岸 信介
安保闘争おこる(~60        
「少年マガジン」「少年サンデー」が相次いで創刊される                  
皇太子殿下御成婚、テレビ中継 視聴者推定1500万人         
展覧試合で長嶋茂雄がサヨナラホームラン                 
マイカー時代始まる    
伊勢湾台風、死者行方不明者5041 
 
 

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                                                                            引用元
 
 



 
展覧試合の動画
 
のじさん この年に小学校に入学する。
 
母は私が生まれてすぐに脳溢血で倒れてしまって半身が動かなかったために、入学式は15歳年上の姉が保護者代わりとなった。姉21歳であった。
 
小学校に上がる前の遊び相手は、となりの美代ちゃんという1歳年上のお姉さんであった。同学年の男の子と遊んだことがなかった。
 
わらで囲った苗床の中に入って、二人で遊んだことを覚えている。
落ち葉を集めて、腐葉土を作り、その発酵熱を利用してサツマイモを発芽させ、サツマイモの苗を作る物である。
 
落ち葉がふわふわのクッションになって、中でジャンプをしたりして遊んだ記憶がある。
 
 
参考画像 サツマイモの苗を育てる踏み込み温床
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そのため、入学式当日から前に座ったいたずらっ子にいじめられてしまった。
3月生まれのためみんなより言葉が遅れていたことと、幼稚園も保育園も行っていなかったので集団生活に慣れていなかったので、学校ではびくびくしていた。
 
 
春の田植えから始まって、苗が伸びてくると、田んぼの草取りが子どもの仕事だった。
日曜日の休みには、ノルマがあった。
苗の間を手押しの除草機を押して、ちいさな雑草を天地返しすることと苗の周りの土を掘って苗の分けつをしやすくする効果があった。
 
参考画像 手押し除草機
 

 
 
この手押し除草機は、2連だが1連のものを使った。
 
参考画像 田んぼの草をかき回して除草する
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学校から家に帰るとおなかがすくので、おやつは味噌おにぎりをよく食べた。
おむすびに味噌をからめただけであったが美味しかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和 35       1960           岸 信介
安全保障条約ワシントンで調印          
カラーテレビ放送開始                       
国民所得倍増計画を決定(高度成長政策の始まり)    
ダッコちゃんが爆発的な人気となる                          
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昭和 36       1961           池田勇人
農業基本法公布          
ソ連のガガーリン少佐が地球一周、「地球は青かった」                                 
大相撲柏鵬時代が幕開け         
小児まひが猛威をふるう、患者数1300人に                         
 
 
昭和 37       1962           池田勇人
キューバ危機 
南極から樺太犬タロー帰国     
国産第一号原子炉点火                       
無責任男、植木等「スーダラ節」などが立て続けにヒット     
テレビ受信契約者数1000万突破(普及率48.5%)                         
                                            
東京都の人口が1000万人を突破       
サリドマイド系睡眠薬が販売停止に  
 
                        
引用元  無責任男、植木等「スーダラ節」などが立て続けにヒット     

 
 
 NO3に続く

2練馬大長尻大根 9-1

私が生まれた年から、のじさんの昭和史が始まる。

昭和28年 1953年 総理大臣は吉田茂
テレビ放送開始され、衆議院がばかやろー解散があった年である。
 
 
私が誕生した年である。
父親は、自営業を営んでいた。
兼業農家で、4反歩ほどの田んぼと1反歩ほどの畑があり、畑は母親が管理していた。
 
私の家は、曲り家(まがりや)という茅葺き屋根の家であった。
 
 
参考画像(引用)

 
曲り家(まがりや)は、馬屋と母屋がくっついている農家の独特な作りである。
 

                               引用画像
 
このような家に高校1年生まで住んでいた。
 
何年にいっぺんか、茅葺き屋根の修復作業があり、私の記憶では、小学校の低学年の頃行われた。
 
 
参考画像

                                 引用画像
 
昭和 29 年 1954 年 鳩山一郎 
第五福竜丸ビキニ環礁で被爆 
プロレス力道山が街頭テレビデビュー
映画『ゴジラ』第一作が公開される 
電気冷蔵庫、洗濯機、テレビが「三種の神器」と呼ばれる
 
 
 
昭和 30 年 1955 年 鳩山一郎
社会党再統一 自由民主党結成(保守合同) 
 
 
 
昭和 31 年 1956 年 鳩山一郎
水俣病が発覚する 
石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞に 経済白書で「もはや戦後ではない」と謳われる
 
 
 
昭和 32 年 1957 年 石橋湛山
なべ底不況 
南極に昭和基地を設ける
 
 
 
昭和 33 年 1958 年 岸 信介
東京タワー完成 
長嶋茂雄、巨人軍入団
一万円札の発行 
皇太子妃が美智子さんに決まりミッチーブームにわく
 
 
 
 
父親の仕事は、専門がタイル職人であったが、当時は、「へっつい かまど」と言うのを作っていた。
 
へっつい かまど
 
参考画像

                                引用画像
参考画像よりも、もう少し技術は上回っていた。
 
また、お金持ちの家のタイル風呂などを作っていた。
私の家は、父親が造った五右衛門風呂だった。
タイルは、商売で余ったものを利用した。
そのため、参考画像のようには綺麗にそろっていなかった。
 
 
参考画像

                              引用画像
 
 
とにかく父親は、手先が器用で、今で言う便利屋さんかリフォーム屋さんのようだった。
ブロック塀はもちろんのこと、納屋や小屋、植木の剪定から煉瓦作りの焼却炉となんでも作った。
 
そして、ほとんどのお得意先はお金持ちの家だった。
 
 
田植えの思い出
 
田植えをやる前に、田んぼを耕し、代かきを行う。
記憶では、牛か馬を使っていた。
私が生まれたときには、馬屋には、馬はいなかった。
近所の農家に頼んでいたようだ。
 
 
参考画像  代かき

                                 引用画像
代かきが終わると、ころばしや線引きを使って、苗を植える目安の線を引く
 
 
参考画像  ころばし

 引用画像
 
参考画像 線引き
 

                               引用画像
 
そして、田植えは、一大行事であった。
 
「結い」という助け合いの共同作業であった。
 
 
 
参考画像 結いによる田植え
 

                                 引用画像
                             
 
様々な農機具が家にあった。


父虎雄の記事が見つかった。

『啓誌熟』より転載
もっと太鼓の“輪”を広げよう
                        2015/01/1512:00 1 0


■太鼓の打ち方指導を通して地域のコミュニティーづくりに貢献する

野島 虎雄氏
(69歳)

『正月の風物詩といえば、コマ回しやたこ揚げ、羽根つきといろいろあるが、しし舞いなどもいまでは見かけなくなったが縁起物として親しまれている。しし舞いにつきものなのが、笛に太鼓。しし舞いの太鼓ではないが高萩市上手綱に住む野島虎雄さん(六九)は、10年以上も各地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。


たつご子供会の「市民ばやし」演奏 画像引用



野島さんは57年4月に、市内松岡にある旧水戸藩家老中山備前守の氏神さまである丹生神社(たんしょう)に伝わっていたササラが復活された際、ササラ舞いの振り付け、太鼓の打法の指導にあたった人だ。


丹生神社(三神社)の棒ささら 画像引用




太鼓と野島さんの縁は、祖父の繁次さん※が、山鹿流太鼓の師範だったことから。山鹿流といえば、テレビ、舞台などで必ず暮れになると放映・上演される「忠臣蔵」のクライマックス、吉良邸討ち入りの時、大石内蔵助が打つ太鼓、あれが山鹿流の陣太鼓。

山鹿流の陣太鼓  画像引用



「祖父が太鼓を教えていた関係で“門前の小僧、習わぬ経”の例えではありませんが、見よう見まねで覚えたんです。とにかく 当時はお弟子さんも多く、1日中太鼓の音が響いていたんですよ。いやでも覚えてしまいます」

戦後は一時、祖母さんのいる柴田サーカスにいたこともあるというだけに、手品・曲芸はお手のもの。その器用さを見込まれてか、10数年来、地域の子供たちに太鼓の打ち方を指導している。下級の子供たちには神輿囃子・矢車太鼓・昇殿神楽※の3種を指導した。

                                  画像引用




子供会の4年生以上になると、この3種の太鼓打法をマスターすることになる。インスタントではなかなか覚えることができない、実演伝承なので、難しい面もたくさんある。ただ、太鼓の良さは、野球などではレギュラーにならなければ試合に出場できないが、太鼓はみんながレギュラー。だれもが一緒になって打つことが出来る。

58年の11月には、親と子、祖父母を加えた三世代の集いで、日ごろ鍛練した太鼓を披露、大好評だった。これだけではなく、7年前から太鼓を通じて老人クラブ、子供会、そして親たちというコミュニティーの輪が広がっている。その一番の功労者は野島さん。

「高萩だけでなく、もっと全国の人たちにも太鼓打法を教えてあげたい」
と野島さんの夢は大きい。
※改訂
第134号 茨 城 朝 日 昭和59年(1984)1月1日・4日(2)


■上手綱に伝わる 神輿囃子の由来

文久元年4月19日、藩主中山備前守より朝香神社に神輿が奉納された。それを記念すべく祭式が行われ、催されたのが、神輿御神楽太鼓と称する御囃子である。


茨城県高萩市上手綱 朝香神社 画像引用




その御囃子とは、慶長8年徳川家康公が将軍の位を賜った時、天海僧上が催したという御囃子があるが、その連係だという。

その御囃子を、藩の太鼓師二代目にあたる白土円覚なる人物が、神前にて演じたのが始まりで、以来、祝いとして若者たちが神輿を担ぎ部落を練り歩くことが、明治7年のころまで続いた。

そのころ、太鼓師三代目にあたる小和田の白土市郎次氏が、数多くの弟子にその御囃子を教育され、他町村にまで広めたが、明治14年衰退の一途をたどり、その後、減衰していったという。

昭和52年7月、高萩市一円に御神輿祭が開催されることになり、大正13年ごろに太鼓師四代目より伝承されていた物を、野島虎雄氏が教授。下組 北組子供会会員に指導していった。

以後、祭礼に執行し、毎年その祭日に行うようになったという。』




父は72才の時に亡くなった。
私が32オの時であつた。
この記事は父が亡くなる3年前のものだ。

私は、父が太鼓をたたく姿を見たことがなかった。

私が生まれて2ヶ月目の時に、母は脳溢血で倒れた。

その時まで、父親は定職についていなかった。
今風に言えば、芸人であった。
太鼓や芸は、その時に封印したのかも知れない。


 
No2につづく

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